「人情味ある下町の町工場や商店街から、どんどん活気が消えていく。退職する団塊の世代の活力を、地域のために生かすことができないか」
坂田さんは、区の幹部として政策を立案しているのではない。退職後のライフワークとして、思い描いているのだ。
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世界遺産・白神山地を抱える秋田県藤里町に生まれた。仙台の大学を卒業して薬剤師の資格を得たが、地元に就職口はなかった。女性の大半が20代前半までに結婚退職した時代。1971年に上京して化粧品を開発する研究所に勤めたが、ようやく見つけた職場も居心地は良くなかった。
大学を卒業した年に結婚した公務員の夫から、「民間より役所の方がいい」と勧められ、73年に「化学職」として墨田区役所に入った。当時は、公害が大きな社会問題で、隅田川にはドブのにおいが漂っていた。
住居と町工場が密集する下町では、騒音や振動、異臭のトラブルが後を絶たず、「もつれた感情の糸を解きほぐす。ほぼ10年、そんな仕事を続けた」。
自身にとっての転機は83年、中小企業の振興を担当する部署への異動。上司に町工場での人脈を買われ、中小企業や商店街を元気付ける方法を考えるように言われた。工場の熟練労働者や経営者を招き、個々が持つ技能を伝えるセミナーを開いたり、企業間の技術提携の仲立ちをしたり。異業種交流で大手繊維会社と地元のニット工場などが連携し、消臭繊維を使った衣服が誕生したこともあった。
「町の人たちと話し合いながら、様々な計画を実現できた。景気の後押しもあり、仕事はどんどん広がっていった」
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だが、バブル崩壊とともに地元でも廃業・倒産が相次いだ。90年に約6320あった区内の工場は、2000年には約4860に。88年に約3690あった小売店も、10年ほどで500店余り減った。01年に商工担当部長に就任した時、国内の製造拠点は中国へ移り、後継者難はさらに深刻になっていた。もはや小手先の政策では対処できない状況だった。
「自分たち団塊の世代が、一斉に年金の世話になる日が来たら……」。03年に福祉保健部長になると、新たな不安が頭をもたげてきた。自らの問題でもあり、焦りばかりが募った。
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坂田さんが「一新塾」で提案したプロジェクトに、「退職者に生き生きと働いてもらうことで、社会保障の負担を軽減したい」と、30〜50代の会社員ら7人が応じた。週末などに集まっては、退職者で組織する都内のボランティア団体などを見学している。
「私たちの世代が退職後にどう過ごすかということは、下の世代にも影響する。プロジェクトはまだ具体化していないが、何の準備もせずに定年を迎えるよりは、ずっといいと思う」
定年を「新たなスタートライン」と位置付けている。